2017年4月2日日曜日

函館新聞の磯谷道記事






函館市の東端に位置する活火山「恵山」(618メートル)を囲むように漁村集落が広がる椴法華と恵山地区。海岸沿いの道道元村恵山線(635号)は断崖(だんがい)に阻まれ、途切れているが、古くは両地区を結ぶ山道「磯谷道」が使われていた。椴法華・恵山岬町から恵山・御崎町を結ぶ南北約2キロの道のりを函館の古道研究家毛利剛さん(73)の案内で歩いた。
 毛利さんは文献資料や地図、絵図を頼りに古い時代に使われた道を探しだす古道探査を続け、これまでに土方歳三がたどった森町鷲ノ木から江差町に至る約250キロを割り出し、踏破した。3月29日に毛利さんや新日本百名山「恵山」を登る会代表の坂口一弘さん、同会事務局長の鎌鹿隆美さん、市恵山支所の寺沢輝義産業建設課長ら7人が磯谷道に挑んだ。
 ホテル恵風(恵山岬町)を出発し、10分ほどで砂防ダムに到着。雪残る恵山の山肌を眺めながら、ダムを横切り、いよいよ磯谷道へ足を踏み入れる。
 等高線が入り組んだ場所で、ややきつい斜面が続き、雪は深いところで30センチほど。毛利さんによると、磯谷道のように生活のために使われる山道は比較的歩きやすい場所が選ばれるという。人馬の往来が増えると木や枝が払われ、雨が降ることで道幅が徐々に広くなる。古道探査は雪解けが進み、草木が芽吹く前の早春がベストで、痕跡をたどりながらルートを探る。
 出発から約30分、木肌をむき出しにした倒木が目に飛び込んできた。周辺にはおびただしい数のシカの糞。ちょうどいい高さに倒れたためか、根元から先端まできれいに樹皮が食べ尽くされ、「カンナを掛けたよう」と驚きの声が上がる。
 さらに15分ほど進むと古道の最高点「磯谷峠」に到達した。海抜220メートルで、恵山山頂のほぼ真東。峠を越えて南向きの斜面になると雪は徐々に少なくなり、一転して落ち葉のカーペットが広がった。
 磯谷道のクライマックスは「お経岩」。「恵山名号(みょうごう)」とも言われ、高さは7メートルを超える巨大な安山岩の壁面に「南无阿弥陀佛(なむあみだぶつ)」と「天保丑(うし)年」と刻み込まれている。伝承には不明な点はあるものの、天保年間(1830~1844年)のものだとすれば、少なくとも170年以上前には存在してたことになる。
 磯谷道には、見る人を圧倒する「名号」をはじめ、巨大な火山岩を割って伸びた木や、こけむした岩などが点在し、自然の厳しさや美しさを体感できる。新たなトレッキングコースとなる可能性について、寺沢課長は「民地も含まれ、登山ルートとして紹介するには整理すべき課題があるが、新たな観光資源になり得ると感じている」と話していた。(今井正一)

 ■磯谷道(いそやどう) 磯谷は恵山・御崎町の古い呼び名。毛利さんによると、「南部藩蝦夷地経営図」(年代不詳)や太平洋側からみた椴法華地区の絵図「チャウシの図」(1855年=安政2年)には椴法華と磯谷を結ぶ山道が描かれている。また、北海道の名付け親、松浦武四郎の「蝦夷日誌」には恵山を訪れた際に、山道の存在を聞かされたとの記載がある。自動車が普及する昭和40年代ごろまでは使われていたと見られる。
 ■お経岩(おきょういわ) 恵山町史によると、現在読むことができる碑文は、風化し、判読不明になりつつあった文字を、1960年に函館の菓子屋問屋飯島治三郎氏が多額の私財を投じて彫ったもの。当時の尻岸内村長名の記念碑も埋め込まれ、元は堀川乗経(ほりかわじょうきょう 1824~1878年)が彫ったものであることが記されている。
 一方で、町史には、称名寺(船見町)の須藤隆仙住職が58年に現地を調べ、石碑は、浄土宗の色彩の強い念仏行人の手によるものとし、彫り直した後には「壁に名号を大書しそれを見て信心を起こす」ことが乗経の宗派である浄土真宗の教えにそぐわないなどとして、関連を否定したことも併記されている。

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